文字サイズ

背景色

背景色白 背景色青 背景色黒

トップページ > 観光・文化財 > 安楽寺

最終更新日 平成24年1月16日

 安楽寺


 岩殿山安楽寺は坂東11番の札所で古くから吉見観音の名で親しまれてきた。本尊は聖観世音菩薩で、吉見観音縁起によると、今から約1200年前に行基菩薩がこの地に観世音菩薩の像を彫って岩窟に納めたことが始まりとしている。平安時代の末期には、源頼朝の弟範頼がその幼少期に身を隠していたと伝えられ、安楽寺の東約500mには「伝範頼館跡」と呼ばれる息障院がある。この息障院と安楽寺は、かつては一つの大寺院を形成していたことが知られている。天文6年(1537年)後北条氏が松山城を攻めた際に、その戦乱によって全ての伽藍が消失し、江戸時代に本堂・三重塔・仁王門が現在の位置に再建されたと伝えられている。毎年6月18日は「厄除け朝観音御開帳」が行われ、この日は古くから「厄除け団子」が売られている。現在でも、6月18日は安楽寺の長い参道に出店が立ち並び、深夜2時ごろから早朝にかけて大変な賑わいとなる。

安楽寺本堂

−県指定 建造物−
 岩殿山安楽寺は板東11番の札所で古くから吉見観音の名で親しまれてきた。「吉見観音縁起」によると今から約1200年前、聖武天皇の勅命を受けた行基菩薩がこの地を霊地とし、観世音菩薩の像を彫って岩崖に納めたことにその創始を見ることができる。延暦の代、奥州征伐のとき、この地に立寄った坂上田村麻呂によって領内の総鎮守となり、その後、源平の合戦で名高い源範頼みなもとののりよりが吉見庄を領するに及び、本堂・三重塔を建立したが北条氏との戦いですべて消失した。 現在の本堂は今から約350年前の寛文元年、秀慶法印によって再建されたものである。その様式は禅宗様に和様を交えた典型的な五間堂の平面を持つ密教本堂で、内部各部材に施された華麗な色彩文様と共に江戸時代前期の様式を保持している。屋根はもと柿葺であったが、大正12年の改修の際に銅瓦棒葺に改められた。

安楽寺三重塔

−県指定 建造物−
 現存する三重塔は今から約380年前の寛永年間に杲鏡法印によって建築されたもので、本堂・三重塔・仁王門・大仏等の中では最も古い。 総高約24.3m方三間の三重塔では基壇は設けられず、心柱は初重天井上の梁で支えられている。屋根は柿葺あったが、現在は銅板葺に改められている。初重の面積は高さに比較して非常に大きく、また各重の面積の縮減も程よく、これに加え軒の出が非常に深いので塔全体にどっしりとした安定感を感じさせる。




安楽寺仁王門・仁王像

−県指定 建造物・町指定 彫刻−
 本建造物は、境内の入口に南面して立つ三間一戸の八脚門である。規模は、表三間のうち両側の仁王像安置の間が七尺八寸五分(約2.38m)、中央は九尺七寸(約2.94m)である。側面は二間とも七尺八寸五分(約2.38m)である。
 正面両端間には金剛棚を廻めぐらし内部に"阿あ”"吽うん”の密迹金剛力士二体を安置している。屋根は瓦葺であったが、現在は銅板葺に改められている。

 仁王像の造立は息障院文書から元禄15年(1702年)と考えられている。平成8年〜10年に実施した解体修理で、元禄年間の造立時の寄進者を列記した幅六寸、長五尺二寸の板が胎内から11枚発見された。





札所めぐり

 札所めぐりとは、もともとは観音を祀る寺院である霊場をめぐる巡礼であり、霊場のご本尊との結縁を願って自分の住所、氏名を書いた木札を、拝観した寺の天井や柱に打ちつけた。そのため、これらの霊場を札所と呼び巡礼のことを札所めぐりと呼ぶようになった。「観音」とは、正しくは「観世音菩薩」と言い、「世の音を観て」それに応じた姿で人々を救うという意味がある。この観世音菩薩は33種の姿に変えることから、札所の数もそれにならって三十三箇所になっている。
 札所巡りとして有名なものは「西国三十三所」「坂東三十三所」「秩父三十四所」で、これらの観音霊場を全てめぐると百観音となる。西国三十三所は平安時代に成立し、坂東三十三所は鎌倉時代、秩父三十四所は室町時代に始まったと言われている。
 これらの札所めぐりも江戸時代となって世の中が安定し、全国的な交通網が発達すると、庶民に普及し広まっていった。しかし、純粋な信仰心というより、札所寺院の他に名所や旧跡を訪れ、土地の名物を食すなど、行楽的なものであった様である。
 また、遠隔地を巡礼できない人々のために、小規模な新しい札所が整備され、その地域ごとに完結する札所めぐりの風習が広まった。こうした中で比企地域に生まれたのが、「比企西国三十三所」「入比にっぴ坂東三十三所」である。

坂東三十三所

 坂東の札所で奉られている観世音菩薩は、十一面観世音が14箇所、千手観世音が10箇所、聖観世音6箇所、十一面千手観世音が1箇所、十一面千手千眼観世音が1箇所、延命観世音が1箇所である。
 源頼朝が熱心な観音信者であったことや、源平の合戦で西上した東国の武士たちが、西国の札所を見聞したことがきっかけとなり、鎌倉時代の初めに坂東三十三所が創設されたと言われている。
 鎌倉の杉本寺を一番とし関東八カ国(相模・武蔵・上野・下野・常陸・上総・下総・安房)を巡る全行程は三百三十里(約1,300Km)で、徒歩で巡ると40日以上かかると言われている。埼玉県内には、九番「慈光寺」(ときがわ町)・十番「正法寺」(東松山市)、十一番「安楽寺」(吉見町)、十二番「慈恩寺」(さいたま市岩槻区)の札所があるが、このうち3箇所が比企郡内にある。札所の番付は創設以来一度も変更されていないが、番付どおりに巡ると遠回りすることが多い配置となっている。そのため江戸時代には、交通事情の変化などから便宜的な行程が組まれ、必ずしも順番どおりに巡ることは無かったようである。

比企西国三十三所

 比企西国三十三所は、東松山市9箇所、吉見町1箇所(三番 岩室観音 −町指定建造物−)、川島町12箇所、滑川町4箇所、嵐山町6箇所、小川町1箇所で、享保8年(1723年)に始まったと言われている。しかし、かつてのお寺やお堂の多くは明治維新後、維新政府の神仏分離政策や、それを拡大解釈した廃仏毀釈によって廃寺となったり、一部の札所では本尊だけが関係寺院に保管されるなどして、現在残っているのは12箇所だけである。

入比坂東三十三所

 入比にっぴ坂東三十三所は、入間郡と比企郡の2郡にまたがる札所で、ときがわ町18箇所、嵐山町1箇所、鳩山町5箇所、越生町9箇所で構成されている。創設年代は享保年間(1716〜1736年)とされているが、明確なことは不明である。ほぼ同時期に創設されたと考えられる比企西国三十三所と比較して、札所としてめぐる地域・寺院とも重なっていない。

有形文化財に関する問い合わせ先
教育委員会 生涯学習課 文化財係 0493−54−9111

※「用語解説」に関するお問合せページ