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最終更新日 平成25年6月21日

吉見百穴/ヒカリゴケ

吉見百穴(よしみひゃくあな)

−国指定史跡−  

電話番号 0493−54−4541

営業時間/午前8時30分〜午後5時

入園料
・ 中学生以上:300円
・ 小学生:200円
・ 小学生未満:無料

休園日/年中無休

 吉見百穴は古墳時代の末期(6世紀末〜7世紀末)に造られた横穴墓で、大正12年に国の史跡に指定された。横穴墓は丘陵や台地の斜面を掘削して墓としたものであるが、死者が埋葬された主体部の構造は古墳時代後期の横穴式石室とほとんど同じである。百穴が分布する一帯は凝灰質砂岩と呼ばれる比較的掘削に適した岩盤が広がっており、当時の人々は掘削するのに適した場所を探して横穴墓を造ったと考えられる。吉見百穴は明治20年に発掘調査が実施されているが、わずかな写真と出土品を残すのみで詳細な情報はほとんど残っていない。現在確認できる横穴の数は219基である。

 吉見百穴の情報を発信しています。「吉見百穴かわら版」はこちら→ 吉見百穴かわら版

付帯設備

車いす対応トイレ 有り
赤ちゃんの駅  おむつ交換○  有り

横穴式の石室
 横穴墓の形態は数種類に分類することが可能であるが、ほとんどの横穴の壁際には10〜20cm程の段が作られている。これが死者を安置した部分であり、一つの横穴に二つの段があるということは複数の人が葬られたことを示している。また、横穴墓の入り口には「緑泥片岩」と呼ばれる山間部に分布する緑色の石の蓋が立てかけられていた。この蓋の存在は、横穴に死体を葬った後であっても、再び石室内に入ることが可能であることを意味する。こうした構造から、横穴墓は一つの横穴に複数の死者を葬る「追葬」を前提にしているのである。これは古墳時代後期に造営された古墳の石室構造と同じものである。

石室の変遷と被葬者
 3〜4世紀に発生した初期の古墳は「縦穴式」の石室構造であり、一度古墳が造営されると再び石室に入るためには古墳を壊さなければならず追葬は困難であった。このころの古墳の被葬者は大豪族や大王と言った権力の頂点にいる人々であったが、古墳時代の後期には大豪族や大王の側近などの豪族も古墳を造営し日本各地で古墳群を形成するようになった。この頃、大陸から横穴式の石室構造が伝来し、一つの古墳に複数の死者を葬る「追葬」を行うようになったのである。その後、社会的な変化や時代の変遷によって大規模な古墳は造営されなくなり、古墳時代の終焉には吉見百穴に見られるような横穴墓群になっていった。こうしたことから吉見百穴に葬られた人々は「豪族」「渡来人」と言った当時の社会で特殊な集団であったことが考えられるのである。

吉見百穴の時代
 仏教が伝来したのは西暦552年(一説には538年)、聖徳太子が推古天皇の摂政となって活躍したのは西暦593年〜622年であり、百穴が造られ始めたころとほぼ一致する。仏教が本格的に広まるのは後年のことではあるが、古墳を造営して死者を葬っていた当時の日本人の死生観に大きな影響を与えたと想像することが出来る。
 また、6〜7世紀は地方豪族の連合体の首長として君臨していた大和朝廷がその支配力をいっそう強め、日本全体が中央集権国家へと移り変わっていった時期である。西暦645年の「大化の改新」以降、中央集権国家としての国家機構は加速していくことになる。646年には葬送の儀式に関係した「薄葬令」が出された。「薄葬」とは一言でいえば「簡単に葬ること」で、地方豪族の権力の象徴と言える古墳の造営を禁止した法律である。西暦652年には班田収受法が施行され、豪族の支配していた「土地」と「人」のすべてが大和朝廷の支配下に置かれるようになり、公地公民制が本格化されていった。
 この「仏教伝来」「中央集権国家」という日本の社会の大きな変換期に百穴は造られたのである。


地下軍需工場跡
 昭和19年〜20年に、吉見百穴とその周辺の丘陵地帯に大規模な地下軍需工場が造られた。今でも通行可能な直径3メートル程の開口部を持つ洞窟が地下軍需工場の跡である。縦と横の洞窟がそれぞれ交差し碁盤の目のようになっているのが特徴である。
 太平洋戦争の末期、米軍の大規模な空襲によって日本の航空機製造工場の生産能力は壊滅的な打撃を受けた。当時、東京都武蔵野市の中島飛行機工場は、空襲から逃れるために地下に移転する計画があったが間に合わず、昭和19年11月と12月の2度の空襲によって生産能力が10分の1に落ち込んだと言われている。そのため、現在のさいたま市にあった中島飛行機工場の移転の必要性が急速に高まり、生活物資の調達に便利で、掘削に適した場所である吉見百穴地域に軍需工場が造られることになった。吉見百穴にある地下軍需工場跡は、こうした空襲を避けながら航空機の部品を製造する目的で造られたのである。本来、市ノ川は湾曲しながら百穴の裾の付近を流れていたが、地下軍需工場の前面に平地を確保するため川を西に移動させ、湾曲した川を直線に改修し現在のようになったと言われていることから、この工事が大規模なものであったことが理解できる。

 軍需工場の対象となったのは松山城から岩粉坂までの直線距離にして約1300メートル部分で、この工事を「吉松工事」と呼んでいた。おそらく吉見と松山にいたる工事という意味と思われるがその理由は定かではない。軍需工場は大きく分けて「松山城跡下」「百穴下」「百穴の北側」「岩粉山近辺」の4工区あり、それぞれの工区は独立していた。ダイナマイトを使用しての工事であったが、地下施設工事に適した凝灰質砂岩の分布は百穴と岩粉山付近でしか認められず、松山城下には第三紀層の固い岩盤があり落盤が起こりやすく、百穴と岩粉坂の中間は山が低いので掘削に適さず工事は難航したと言われている。また、この工事は設計後の図面に基づいて実施しているわけではないので、工事を進めながら設計を進めるという作業であった。そのため掘削しては測量し、高低や方向を修正していたと言われている。七月頃には機械が搬入されエンジンの部品が製造され始めた様であるが本格的な生産活動に移る前に終戦となった。この工事に携わったのは全国から集められた3,000〜3,500人の朝鮮人労働者で昼夜を通した突貫工事であった。掘削工事に従事した最後の人の帰国に際し、日本と朝鮮との平和を希望して植えられたムクゲの木は現在でもこの地で成長を続けている。

ヒカリゴケ

−国指定天然記念物−
 ヒカリゴケはコケ類の一種であり、緑色の光を放出しているように見えるところから、この名がついている。ヒカリゴケの生育には、一定の気温と湿度を保つ環境に恵まれることが必要で、この条件に合った吉見百穴の横穴墓内にはヒカリゴケが自生している。ヒカリゴケは一般的に中部以北の山地に見られるが、関東平野に生育していることは植物学上極めて貴重である。



最寄りバス時刻表

 ◆百穴入口
 ◆武蔵丘短期大学
お問い合わせ先
教育委員会 生涯学習課 文化財係 0493−54−9111

Yoshimi-Hyakuana/luminous moss

luminous moss

−officially-designated historical site− 
  ・ Phone number 0493−54−4541
 ・ Business hours/from 8:30A.M.to5:00P.M.
Charge
  ・ More than a junior high student:¥300
 ・ A primary schoolchild:¥200
 ・ Less than primary schoolchild:free
 7 day a week
  Yoshimi-Hyakuana is composed of hundreds of ancient tomb dugs into the side of a hill. These were made between late 6th century and late 7th century.. It was designated as a historical site at 1923.Though ancient tomb dug into the side of a hill is made by drilling slope, its main construction is similar to that of stone hut. Yoshimi-Hyakuana whole area is covered by tuffaceous sandstone. Tuffaceous sandstone is easy to dig. That is the reason why ancient tomb dugs into the side of a hill exist here. In 1870s and 1880s, excavation was carried out but the results are some excavated article only. The number of ancient tomb dugs is 219.

 Yoshimi-Hyakuana Infomation Site→ 吉見百穴かわら版

Tomb chande
  Early ancient tomb is digged vertically in 3rd and 4th century. Once it was made, people must break it to enter the tomb. So it is impossible to entomb in the same one. At that time the this kind of tomb was made for only the blood royal and other big powerful families. In late tumulus period, other powerful families and close aide of the blood royal family began to make their tombs in various areas around Japan.
Period of Yoshimi-Hyakuana
  The period that Yoshimi-Hyakuana was made is also the period that Buddhism was introduced(A.D. 552 or A.D.538). The Japanese view of life and death was thought to be influenced by Buddhism at this period. In addition, the Yamato imperial Court ruled a wide area of Japan and built a centralized system in this century. After the Reformation of Taika(A.D.645) the court strengthen the system. In A.D.646 the Court announced Hakuborei. Hakuborei means that the funnel must be simple, prohibiting powerful family to make tomb. Yoshimi-Hyakuana was made in these period.




Old underground munition factory
  In 1944〜1945, large scale of underground munition factory was build around the area of Yoshimi Hyakuana. Caves being 3 meters in diameter remain now. When thePacific War (World War II)was near its end, the production capability of airplane of Japan suffereed catastrophic damage. At that time, Nakajima airplane factory was planning to move factory from Saitama City to Yoshimi Town.



luminous moss

−natural monument designated by Japan−
  Luminous moss is a kind of moss. It looks like shining in green. luminous moss need a uniform temperature and humidity. Yoshimi ancient tomb meet this requirement






Contact
Board of Education  0493−54−9111

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