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トップページ > 観光・文化財 > 松山城跡

最終更新日 平成23年12月1日

比企城館跡群 松山城跡(ひきじょうかんあとぐん まつやまじょうあと)

−国指定史跡−

1)概略

 松山城跡は、比企丘陵の先端に築かれた北武蔵地方屈指の平山城で、大正14年に県指定史跡となる。平成20年には、すでに国指定であった菅谷館跡(嵐山町)に、杉山城跡(嵐山町)、小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町)とともに加わり、比企城館跡群として国指定史跡となる。城の周囲は市野川が形成した低湿地帯が広がり天然の要害を形成している。「松山城」と呼ばれる城は、愛媛県(伊予松山城)・岡山県(備中松山城)に存在することから、他の松山城と区別して「武州松山城」「武蔵松山城」と呼ばれることもある。現状の城の縄張りは、後北条氏による大改修によって形成されたものと思われ、本曲輪を初め多くの平場や空掘などが大変良好な状態で残っている。
 「鎌倉大草紙」には、応永23年の鎌倉六本松の合戦において「松山城主上田上野介討死」とあることから、応永年間(1394〜1428)には松山城は存在していたと推定される。しかしながら、この頃の文献資料は極めて乏しく詳細なことは不明である。歴史的には、室町幕府の要職にあった公方足利氏、扇谷・山内両上杉氏が衰退し、戦国大名の代表とされる後北条氏が興隆する時期からその名を中世史に登場させたと言える。
 天文年間(1532〜1555)以降の文献資料は豊富で、その中には、扇谷・山内両上杉氏、後北条氏、甲斐の武田氏、越後上杉氏の名も見られる。特に、天文6年(1537年)に小田原の北条氏綱が江戸城・川越城を落とし松山城を攻めたことは有名である。その後も後北条・越後上杉などによる度重なる合戦によって支配者が頻繁に変わったが、後北条勢力下の上田氏の支配下にあることが多かった。松山城をめぐる攻防は大変激しく、ここが北武蔵地域の要所であったことが伺える。天正18年(1590)、豊臣秀吉による関東攻略の際、前田利家・上杉景勝などの軍勢が攻め落とし、小田原に本拠を構えた後北条氏は滅亡した。その後、徳川家康が関東に入り松平家広を松山城主としたが、弟の松平忠頼のときに浜松に移封され慶長6年(1601)に廃城となった。

2)地理的環境

 松山城跡は比企丘陵の先端にあり、周囲は市野川が形成した広大な低湿地帯に囲まれている。市野川は城の北側から西側を廻りこみ丘陵の裾を削り取っているため、松山城跡の北側と西側には断崖絶壁を形成する部分が見られる。城の南側には、市野川が形成した広大な低湿地帯があり水田としての土地利用が古くから行われている。南西には松山台地が発達しており、市野川や滑川といった複数の河川によって分断されている。ここから東に向かうと標高14m前後の低地が延々と続き、やがて関東平野を縦断する荒川に達する。かつては大雨などによる浸水の被害が頻繁であった地域でもあるが、和田吉野川や荒川によって形成された自然堤防上には、縄文時代〜近世に至る遺跡が点在する。一方、松山城跡の西方は外秩父山系の丘陵地帯であり、松山城跡とともに戦国期に築城された青鳥城跡・杉山城跡・小倉城跡・中城跡・腰越城跡・安戸城跡などの多くの城館跡が存在する。
 松山城跡付近の丘陵部では開析谷の発達が顕著で、小規模な溜池に依存した谷津田が発達し、さらにその開口部には沖積地への灌漑を目的とした大規模な溜池が築かれている。これらの溜池の起源は江戸時代に遡ると言われるが、現代に至るまでその多くが活用され、近隣の水田地帯への水源となっている。北側の市野川沿いには、古墳時代終末期の横穴墓群である国指定史跡の吉見百穴が近接するが、この一帯は平地と丘陵の分岐点という地形的特徴が顕著であることから、昭和19年末〜20年には周辺の地形を利用した地下軍需工場が造られた。現在でもそれらの軍需工場は残されており、3m程の開口部のトンネルが吉見百穴と松山城跡の一部で確認できる。

3)歴史的背景

 室町幕府の初代将軍足利尊氏は、幕府による全国支配を強固にするため、関東に鎌倉府を置き四男の基氏を鎌倉公方として関東地方を統治させた。その鎌倉府の要職に「関東管領」があり、上杉氏が代々世襲していた。この上杉氏に諸派があり、その中でも山内上杉・扇谷上杉が有力で、城造りで有名な太田道灌はこの扇谷上杉の家臣であった。本来、関東管領は鎌倉公方を補佐する役職であったが、公方足利氏・山内上杉氏・扇谷上杉氏らの確執によって争乱・内紛が起こるようになり、15世紀以降これらの有力者同士の争いは激化・長期化し、関東地方は戦乱状態に突入していった。比企地域に15世紀後半から16世紀前半の城館跡が集中するのは、これら三つの勢力が交差する地域だからである。こうした室町幕府の旧勢力は、やがて戦国大名の代表と言える後北条氏の勢力下に統一されていったが、関東の戦国時代の様相は、後北条氏らによる新興勢力によって新たな局面を生み出した。
 関東制覇を進める後北条氏は、天文6年(1537年)に河越城を占拠し、戦国の三大奇襲戦といわれる天文15年(1546年)の河越夜戦では公方足利氏・山内上杉氏・扇谷上杉氏らを破り、着実に版図を拡大していった。天文21年(1552年)関東を追われた上杉憲政は、越後の長尾影虎(後の上杉謙信)を頼り、上杉の姓と関東管領職を譲った。永禄二年(1559年)、上洛した長尾影虎は、上杉憲政を支援し後北条の支配から関東を回復することを将軍足利義輝から要請された。そのため永禄三年(1560年)以降、影虎は旧上杉氏の所領である関東にたびたび進出し、北条氏康・武田信玄らと合戦を繰り広げたのである。
 松山城跡はこうした歴史的背景の中で存在した山城で、東に広がる広大な関東平野と戦国期の山城が集中する西の山間部の分岐点に存在する北武蔵支配の重要拠点であった。また、この立地は扇谷上杉の家臣から、後に後北条の勢力下に加わった上田氏の支配域の東端と見ることが出来る。上田氏の出自については諸説あり不明な点は多いが、東秩父村の安土城及び菩提寺である浄蓮寺を西端とし、中城・腰越城・青山城・青鳥城などを経由し松山城を東端とする領域を支配していたことで知られる。この領域は現在の比企地域とほぼ一致しており、当該地域に現存する戦国期の城館跡は、この地域内を東西に結ぶネットワークとして形成されたものが多い。

4)松山城の縄張り

 松山城跡の曲輪構成は、西から東に向かって本曲輪・二ノ曲輪・春日曲輪・三ノ曲輪が一直線に並び、それらを取り囲みながら惣曲輪・兵糧倉跡を始め大小様々な腰曲輪が配されている。曲輪の周囲には大規模な空掘と切り落としがあり、城跡の南側の斜面には竪堀も認められる。本曲輪は東西45m、南北45mほどの広がりを持ち、東北部には曲輪から突出した物見櫓が設けられている。また、本曲輪の北部には一段高い三日月形の平場状の広がりが認められる。本曲輪の北側には兵糧倉跡があり、空掘内に設けられた土橋を通じて連絡されている。二ノ曲輪は本曲輪の物見櫓を囲むように「コ」の字状を呈しているが、平面形状は凹凸が多い複雑な形状をしている。東側の空掘内には低い土橋状の遺構が認められ、春日曲輪との通路として機能していたものと思われる。春日曲輪は二ノ曲輪の東側を囲うように配されており、南北に細長く非常に複雑な形状をしている。南側には細い通路と馬出し曲輪などの小さな曲輪が認められ、これらの通路を経て下段の虎口に向かう。北部の土橋からは二ノ曲輪北側の平場に通じ、この平場から北側に下ると一次調査を実施した惣曲輪になり、南側の空堀を越えると二ノ曲輪になる。東側には南北方向に堀切があり、ほぼ中央の土橋から三ノ曲輪に通じる。三ノ曲輪は現存する松山城跡の東端の曲輪である。東西35m、南北36mのほぼ方形で、西側には土塁状の段差が認められる。

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教育委員会 生涯学習課 文化財係 0493−54−9111

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