吉見見聞録

更新日:2021年04月01日

町名の由来

 「吉見」という地名は、伝説によると「ヨクミユ」と言ったことに始まるといわれます。
 古代においては、「横渟(よこぬ)」といい、更には「横見」となり、現在の「吉見」になったようです。
 明治22年には、横見郡内の村は東吉見村、西吉見村、南吉見村、北吉見村の四か村となりました。
 そして明治29年には「横見郡」が「比企郡」に編入され、古代以来続いた「横見郡」は消えてなくなりました。
 昭和29年には東西南北四か村が合併して吉見村となりました。昭和47年、町制を施行。現在の吉見町となりました。

町に伝わる昔話

安楽寺に伝わる「野荒しの虎」伝説

 岩殿山安楽寺は坂東11番札所で、真言宗智山派に属しており、別名「吉見観音」といわれて近隣の人々に親しまれている。 今から約1,300年前、 行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が岩窟に観音像を安置したのがはじまりといわれています。 延暦14年(795)、坂上田村麻呂は東国平定の途中、この観音様に戦勝を祈願し、報恩感謝のため百僧を供養し、吉見領の総鎮守としました。 平治の乱後、乙若丸(後の源範頼)は、 比企禅尼(ひきぜんに)に庇護され、稚児僧(ちごそう)として長い間この寺に蟄居(ちっきょ)していましたが、成長してからは信仰がとくに篤く、16丈の三重大塔、25間四面の大講堂を建立したと伝えられます。しかし天正年間(1573〜1592)、松山城の攻防戦に際し、これらの大堂はすべて焼失してしまいました。現在の本堂は今から約345年前の寛文元年(1661)秀慶法印(しゅうけいほういん)によって再建されたもので、県の有形文化財に指定されています。 その本堂には、左甚五郎(ひだりじんごろう)の作といわれる「野荒しの虎」もこの堂内の欄間(らんま)に納められています。そして次のような素朴な伝説が残っています。 夜ごとこの欄間に彫刻された虎はお堂を抜け出して、付近の家畜や田畑を荒らし、村人を大変困らせていました。ある夜、村人が総出で虎狩りをした際に、虎の足を槍で突くことに成功しました。虎の力は強く逃げられてしまいましたが、血の跡をたどってみると、お堂までつづいており、今までなかった欄間の虎の後足にたくさんの血がついていたといわれています。

ポンポン山に纏わる 《 まつわる 》 伝説

 吉見町田甲の高負彦根(たかおひこね)神社の境内裏には、見晴らしのよい岩山があります。この山の中腹に登って足を踏み鳴らすと、ポンポンといい音がします。 そこには、こんな言い伝えが残っています。 その昔、ある長者が財宝の隠し場所を捜していました。長者はある日、高負彦根神社に詣で、「いちばんいい財宝の隠し場所を教えてください」とお伺いをたてました。すると神様のお告げがあり、「この岩山に埋めろ。私が守ってやろう」というものでした。そこで長者は大変安心して、財宝をこの山に埋めたそうです。 それからしばらくして、長者の隠した財宝を盗もうと盗人が山に入り込みました。すると突然、山がポンポンと山鳴りを起こしたので、盗人は恐れおののき、震えながら山をおりました。それ以降だれも、財宝を盗み出しに行くものはいなかったということです。このようにして財宝は永い間、安全に埋まっていたということですが、あまりにも古い話なので、その後の財宝の行方は、近在の人たちの間でも知る者はいなくなったということです。 今では、こうした話の名残として、岩山はポンポン山と呼ばれており、山には神霊がいるといわれています。

閉ざされた名所

巌岩 《 がんくつ 》 ホテル

 松山城跡西側の斜面に「巌窟ホテル・高荘館」という人工名所があります(現在は立ち入りできません)。この付近一帯は凝灰岩(ぎょうかいがん)という性質の岩盤から構成されており、建築資材にも利用される加工しやすい石材でできています。この凝灰岩の岩山へ眼をつけたのがその土地の所有者で、近所に住む高橋峰吉という人でありました。当地の名主三吉の次男として安政五年生まれの峰吉は、創意工夫の心の持主でした。ちょうど明治三十七年六月、峰吉が46歳の時に目の前の岩の崖をノミ1本で掘り始めました。そして21年間一人で岩盤を掘り抜いて建物「巌窟ホテル」を造りました。館内の花瓶・棚等すべて掘り残して出来ていて、後で付け加えたものでないところに苦心のあとがうかがえます。室内の温度は四季を通じて一八度から一九度と一定しているので、夏は涼しく冬は暖かいのが建物の特長です。 大正の初めのころは、見物人も多く室内が狭かったので、見学に際しては整理券を発行したほどで、その様子はロンドンタイムスにも報じられたといいます。 「巌窟ホテル」の名前の由来は、岩の崖を掘る峰吉の姿を見た多く人たちが「巌窟掘ってる」・「巌窟掘ってる」というのがナマって、いつしか「巌窟ホテル」となってしまってしまったのではといいます。英語の「ホテル」の意味ではなかったのです。

昔からの吉見の名物

吉見観音厄除け 《 やくよけ 》 だんご

 吉見町の名物といえば、「イチゴ」がありますが、隠れた名物として、「厄除けだんご」があります。毎年6月18日は、安楽寺本尊の御開帳(ごかいちょう)の日にあたり、この日は、朝早くから参詣するほど御利益があるといわれており、夜明け前より参詣者(さんけいしゃ)が大勢詰めかけます。その時、境内や参道では「厄除けだんご」が売り出され、これを食べると一年間の厄落としができるといわれています。そのため、朝早くから参詣者が訪れ「厄除けだんご」を買っていきます。「厄除けだんご」はしょうゆの効いた素朴な串団子で、当日の朝8時ごろには、ほとんど売り切れてしまうほどです。

吉見所縁の著名人

源 範頼 《 のりより 》

 平安時代〜鎌倉時代にかけて活躍した武将。源頼朝の弟、義経の兄、九州征伐に義経と共に総大将として遠征した。頼朝より伊豆修善寺に幽閉され自刃したと言われるが、義経と同じく生き延びて暮らしたとも言われている。その落ち延びた先の一つに吉見の御所が上げられています。

大串次郎重親 《 おおくしじろうしげちか 》

 鎌倉武士畠山重忠(はたけやましげただ)の家臣、源平の合戦「宇治川の戦い」の際に活躍、奥州征伐の際にも活躍。

関根戸兵衛 《 せきねとへい 》

 江戸時代、吉見出身の力士、横綱格(当時「横綱」の格付けがなかった)四股名(しこな)は山獅子戸平(やまじしとへい)。現存する着衣よりかなりの大男と推察できる。怪力にまつわるエピソードが多く残る。

大乗愚禅和尚 《 だいじょうぐぜんおしょう 》

 江戸時代、吉見町丸貫出身、名僧、加賀の大乗寺の第四十三世の住職となる。書家として有名。

福沢桃介 《 ふくざわももすけ 》

 福沢桃介は、明治元年に埼玉県のほぼ中央に位置する吉見町荒子の岩崎家の次男に生まれ、幼くして神童の誉れ高く聡明なことは、終生変わりませんでした。 明治7年、一家は川越に移りましたが、その後、あい前後して父母が病没してからは、吉見との関係が深まりました。慶応義塾に在学中には望まれて、福沢諭吉の養子となり、明治20年には米国に留学しました。帰国後、財界に入り、病床でもできる仕事として株を始め、株式界で雄飛し、「韋駄天(いだてん)の桃介」・「飛将軍(とびしょうぐん)」等の異名を得ました。その後、株式で得た資本を電力業界に投じ全国に亘り業績を挙げて、ついには「日本の電力王」・「経営の鬼才」と呼ばれるに至りました。 特に福沢桃介は、木曽川水系の電源開発に主力を注ぎ、わが国最初の外債募集を成功させました。その流域だけでも大井ダムを始め7カ所の発電を開設しました。 また、明治・大正・昭和にかけて近代日本産業の発展とともに名古屋の工業化を進め、今日の中部経済圏の一端を築きあげ、昭和13年に70歳で他界しました

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