金蔵院宝篋印塔《こんぞういんほうきょういんとう》

更新日:2021年04月01日

比企郡吉見町大字大串地内に建てられた石造の金蔵院宝篋印塔の写真

-県指定史跡- 2基
 金蔵院宝篋印塔は比企郡吉見町大字大串地内にある県指定史跡の宝篋印塔である。宝篋印塔とは鎌倉時代中期に出現し、宝篋印陀羅尼(だらに)経という経典を塔内に納め、礼拝供養をおこなった石造塔である。
 金蔵院にある県指定の宝篋印塔は2基あり、山門の入り口には応安六年(1373年)、西側には「永和二年丙辰十一月沙弥隆保(しゃみたかやす)」の銘を残す。沙弥隆保なる人物については不明であるが、“沙弥”とは仏教用語で戒律のひとつであり、永和二年は西暦1376年である。宝篋印塔の保存状態は2基とも良好で、その構造は二重式という県内でも大変珍しいタイプである。かつてはこの永和二年の宝篋印塔を含む周辺一帯が広大な金蔵院の敷地であったと言われている。

比企郡吉見町大字大串地内に建てられた石造の両側に花が飾られた金蔵院宝篋印塔の写真

 永和二年銘の宝篋印塔は、「伝大串次郎重親塔」とも呼ばれており、文化・文政年間に編纂された「新編武蔵国風土記稿」(1810年~1826年に編纂)には、その当時から地元の人々の間では、大串次郎の墓であるという伝聞があったことが記されている。しかし、大串次郎が活躍したのは平安時代末~鎌倉時代初頭(12世紀末~13世紀)で、宝篋印塔には永和二年(1376年)という銘が残されており、約150年もの開きがある。そうしたことから大串次郎の墓という言い伝えは、後世に創作されたものと考えられていた。
 しかし、平成11年に実施した宝篋印塔の保存修理・覆い屋設置工事で、永和二年の宝篋印塔の地下から、人骨が納められた13世紀初頭の中国産の白磁四耳壷(はくじしじこ)、12世紀後半の愛知県渥美産の大甕を出土し注目を集めた。

参考

一.大串次郎重親 《 おおくしじろうしげちか 》 について

 大串氏は、武蔵七党の一つである横山党の出身である。この党は東京都南多摩郡にあった横山庄を本拠として全国に分布した。
 重親の幼名は明らかではないが、元服に際して鎌倉武士の中でも武名の高い御家人、畠山重忠の一字をもらって改名した。それ以降、宇治川の合戦や奥州征伐に向かう重忠の家臣団の一員として、大串次郎は各地に転戦した。

武蔵七党

 同族意識によって結合した在地小領主の武士団を「党」と呼ぶ。武蔵七党という呼称は武蔵国の武士団の総称として生まれた。横山党、猪俣(いのまた)党、野与(のよ)党、村山党、西(にし)党、丹(たん)党、児玉(こだま)党の七つの党である。源頼朝が伊豆で挙兵した際には一時敵対するが、頼朝が鎌倉に入る頃に従属した。頼朝の御家人の中で精鋭な部隊として活躍し、鎌倉時代には恩賞として各地に所領を与えられていった。

宇治川の合戦

 西暦1184年(寿永三年)、京都を占領していた木曾義仲の軍勢を征圧する為に、源頼朝が範頼・義経に命じて大軍を西上させたことで起こった合戦。戦場は琵琶湖に源を発する瀬田川とその下流の宇治川であった。畠山重忠は義経に属し、大串次郎もその配下にあり宇治川に向かった。

奥州征伐

 西暦1189年(文治元年)、源頼朝が奥州の藤原秀衡(ひでひら)・泰衡(やすひろ)のもとに逃れた義経を討つという口実で起こした合戦。頼朝が鎌倉を出発した際に畠山重忠は先陣にあり、重忠の従軍の中に大串次郎の名前がみられる。

畠山重忠との対陣

 鎌倉幕府第三代将軍源実朝のころ、北条時政は執権職について権勢を持ち始めた。まず、第一の競争相手比企氏を滅亡させ、続いて幕府内の声望が高い畠山氏を謀略により葬った(西暦1205年 元久二年 畠山重忠42歳)。この時、大串次郎は北条方についていた。

二.発掘調査について

遺物出土状況

 伝大串次郎重親塔の直下から砂岩質の台石が検出した。台石の周りを掘削すると大甕の破片が折り重なるように出土した。その下からは蓋つきの石棺が出土し(昭和5年に製造)、石棺の中に白磁四耳壷が納められていた。石棺と白磁の隙間には炭化物が詰め込まれ、白磁を固定していた。また、白磁の中には人骨が納められていた。

昭和5年の修理工事及び遺物出土状況

 昭和5年土地改良事業に伴い、地元の有志によって宝篋印塔の修理工事を実施している。詳細な工事内容は不明だが、その際の掘削によって蔵骨器(白磁四耳壷)の存在を確認している。白磁四耳壷は、この時点で大甕の中に納められて埋納されていたが、掘削及び取り上げによって大甕は破損した。そのため、大甕の代りとなる石棺を作り、その中に白磁四耳壷を納め、置石の周辺には破損した大甕を一括廃棄した。

三.出土遺物について

白磁四耳壷

壺の肩周辺に4個の環耳がついた白磁四耳壷の写真

 一般に白い素地に透明の釉を施したものを白磁と呼ぶが、製品によって微妙な色調の変化がある。また、肩の周囲に4個の環耳がついた壷を四耳壷と呼ぶ。今回出土したのは、13世紀前半の南宋~元時代の中国陶磁で、欠損部分がない完形品である。高さ21,9センチメートル、最大幅17,3センチメートルで、白磁四耳壷内部には人骨が納められていた。日本では、経塚や古墓から出土する例が知られている。
経塚とは仏教の経典を埋納した塚のことである。通常、経典は経筒に納め、さらにそれを専用の外容器や甕に入れる。末法思想が広まる11世紀以降に盛んに行われるようになった。

大甕

 12世紀の国産の大甕で、渥美半島で製造されたものである。高さ58,4センチメートル、胴部最大幅67,9センチメートルを計る。胴部には3段のタタキが、肩部にはランダムのタタキが認められる。本来、白磁四耳壷の外容器として使用されていたが、昭和5年の取り上げ時に破損している。
平安時代の猿投窯が展開して常滑窯・渥美窯が誕生した。常滑窯は愛知県知多半島に、渥美窯は渥美半島にそれぞれ分布している。出土した大甕は口縁部形態、プロポーションから12世紀後半(第3四半期)と考えることが出来る。

人骨

 総重量750グラムで、骨と共に木炭片や焼土塊或いは燃焼材と思われる繊維片等を検出した。骨の大部分は灰化するまで焼かれており、収縮や変形及び骨表面の亀裂が著しい。一部には、黒色に炭化した骨片がある。歯は4点残っているが歯根しか残っていない。歯冠は熱のために崩壊したと思われる。以上のことから、人骨は高温で焼かれたが全体が灰化するためには時間が不十分であったと推定される。
出土人骨の性別は、頭蓋骨、四肢骨の発達状況から男性と思われる。年齢は頭蓋骨の縫合の癒合状態などから、壮年後半と推測される。また、出土した焼骨の総重量は750グラムであるが、一般に成人男性1体が火葬され、完全に灰化した重量は約3キログラムと言われている。このことから、今回出土した火葬人骨は成人男性1体分の4分の1程度である。

台石

 宝篋印塔の直下で検出した。本来の役割としては大甕の蓋であったことが考えられる。砂岩質の凸形で出土時には逆凸に埋められていた。上面100×70センチメートル、高さ50センチメートル程である。

石棺

安山岩質の蓋付の石棺で、昭和5年に製造されたものである。上面は一辺が40センチメートルの正方形で高さ40センチメートルである。中央に直径25センチメートル、深さ25センチメートル程の円柱形の掘り込みがある。

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