息障院(伝範頼館跡)

更新日:2021年04月01日

吉見町大字御所地内に建つきれいに整備された本殿前までの参道がある息障院の写真

 吉見町大字御所地内の息障院がある一帯が、源範頼の居館跡と伝えられている。源範頼は頼朝の弟で平治の乱後、岩殿山に逃げ比企氏の庇護によって成長した。頼朝が鎌倉で勢力を得た後も吉見に住んでいたと思われ、館を中心とするこの地を御所と呼ぶようになったと言われている。
 範頼は遠江国蒲御厨(かばのみくりや)(浜松市)で生まれたことから蒲冠者(かばのかじゃ)とも言われているが、頼朝・義経の生涯が良く知られていることに対して、不明なことや謎とされていることが多い。源平の合戦では義経と共に平氏追討軍を指揮していたが、頼朝が征夷大将軍になると謀反の疑いをかけられ、建久四年(1193年)八月に伊豆に流された。範頼のその後については不明であり「修善寺で自刃」「現横浜市の太寧寺(だいねいじ)で自刃」「伊予国(愛媛県)の河野氏を頼り、そこで没した」「北本市石戸宿で没した」などの諸説がある。
 範頼没後はその子 範円(のりかど)(一説には範国(のりくに))、為頼(ためより)、義春(よしはる)、義世(よしよ)に至る五代がこの館跡に居住し、範円以降は吉見氏を称した。永仁四年(1296年)、範円の孫義春が謀反の罪で殺害され、次いで義春の子義世も謀反の罪で捕らえられ殺されるなど、北条氏の弾圧を受けた。
 現在の息障院がこの地に移ったのは、室町時代の明徳年間と伝えられるが、今なおこの寺の周囲には、範頼の館建立時に作られた堀の一部等が残っている。

絹本着色両界曼荼羅 《 けんぽんちゃくしょくりょうかいまんだら 》

約2メートルの長さのある仏・菩薩の図様表現などされた絹本着色両界曼荼羅の写真

−県指定 絵画−
 絹本着色両界曼荼羅は金剛界(こんごうかい)胎蔵界(たいぞうかい)の対幅からなり、その大きさは、共に縦232.5センチメートル、横127.5センチメートルである。この両界曼荼羅は、通例の金剛界・胎蔵界両部の曼荼羅で、仏・菩薩の図様表現や金泥を多様した設色方法等から室町時代に製作されたものと考えられる。吉見町大字御所の息障院に蔵されている。

絹本着色涅槃図

釈迦と多くの弟子や動物を描かれた献本着色涅槃図の写真

−町指定 絵画−
 沙羅双樹のもと、北枕西面右脇を下にして涅槃に入る釈迦と、それを見守り悲嘆する多くの弟子や動物を描いた通例の涅槃図である。描線や設色は古法を保ち、抑制された画面構成をしており、近世後期の大型涅槃図のような誇張した図様表現とはなっていない。江戸時代前期の制作と考えられ、その大きさは、縦201.5センチメートル・横156.1センチメートルである。

仏説大乗造像功徳経

紺紙に経文を金箔で書かれた仏説大乗造像功徳経の写真

-町指定 書籍-
 紺紙に銀で界線を引き、金箔の経文を書している。1159年に鳥羽天皇の冥福を祈って書されたものである。

不動明王坐像

右手に剣、左手に羂索を持った不動明王坐像の写真

-県指定 彫刻-
 源範頼館跡と伝えられる息障院の本尊である。像高81.6センチメートルの結跏坐の型をとる坐像で、右手に剣、左手に羂索(けんさく)を持っている。12世紀頃の中央仏師の作と考えられ、県内最古のしかも地方作の代表的な不動明王である。ヒノキ材の寄木造り、両眼とも玉眼としない眼、おだやかで繊細な衣紋や形相などを特徴としている。

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