東山道
平成13年度に実施した西吉見条里遺跡の発掘調査で、道幅9〜12メートルの大規模な古代の道路跡が発見されました。発見された古代の道路跡は、その規模とルート方向から「東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)」の可能性が指摘されています。現在までに1.8キロメートルにわたる部分で、ほぼ直線状に延びていることが確認されています。この道路跡は、南に向かうと武蔵国の中心であった東京都の府中市に到り、北に向かうと群馬県・栃木県・福島県・宮城県を通過し山形県・秋田県に到達します。
道路とは本来、人々が自由に行き交うものですが、東山道は特定の任務をもった役人や、地方での反乱を鎮圧するための軍隊が通行するための道路でした。往来の便をはかるために中継基地として約16キロメートル(この当時の単位で30里)ごとに「 駅屋(うまや)」を置き、馬を10疋(ひき)常備していたとされています。
西吉見条里遺跡で発見された古代道路は、低湿地から自然堤防である微高地上にかけて検出しました。このような事例は全国的に見ても調査例が少なく、低湿地という悪条件の地盤を克服するために、さまざまな土木工法が確認されています。
微高地上で発見された古代道路
路肩部分の丸木杭
路肩部分の石敷き
東山道の歴史
奈良時代、朝廷は全国の支配を強固にするため、山陽道・山陰道・東山道・東海道・西海道・南海道・北陸道の7つの行政区画を行いました。「東山道」とは行政区画の名称であると同時に、諸国と都を結ぶ道の名称です。これらの道路は、地方に赴任した貴族や地元の豪族達によって管理され、時にはルート変更や造り替えがあったものと考えられます。
東山道は都を基点とし、出羽国(でわこく)(山形県・秋田県)までの8カ国を結ぶ交通路とされていますが、その途中にある上野国(こうずけこく)(群馬県)で南に分岐し、武蔵国(埼玉県・東京都・神奈川県の一部)に到ります。この分岐する道路を「東山道武蔵路」と呼びます。
史料によれば、武蔵国は宝亀2年(771)年に東山道から東海道に所属替えが行われています。それに伴い、上野国から南に分岐して武蔵国府に向かうルートは使用されなくなり、東山道武蔵路はそれまでのような主要道路として機能しなくなったと考えられています。
奈良時代の交通路
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更新日:2021年04月01日